隆勝寺 縁起
天台修験道場として隆盛をきわめた西蔵王 三百坊に起源を持つ寺院です。
1451年 時の隆勝寺 住職 慈全は、加賀の僧 無量坊の教えにより、浄土真宗へと改宗。
1660年頃、山形城主 保科正之の許しを得て蔵王成沢の地より現在の小荷駄町へと移建。
95坪、木造トタンぶきの本堂は、1959年に大改修したものですが、
伽藍は往時の高い格式と、天台宗が隆盛を極めた頃の竜山信仰の華やかさと伝統の遺風をとどめています。
隆勝寺の歴史 | |
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850年頃 | 慈覚大師(天台宗)が龍山(霊山)寺創建 西蔵王に龍山寺を中心にたくさんの堂塔・坊舎がたったことから三百坊と呼ばれる |
867年 | 龍山寺が定願寺(国指定の寺)になる 隆勝寺を含め、三百坊隆盛 |
1258年 | 北条時頼三百坊閉山命令 隆勝寺山形市成沢へ移転し、復興 |
1451年 | 浄土真宗に改宗 |
1644年 | 山形城主保科正之により現在地に長福寺を建立 長福寺から隆勝寺に改称し、成沢より本堂移築 |
令和2年8月から先代住職に代わり、第19代住職に就きました。
平成4年生まれで、高校まで山形で生活し、大学は宗門の大学であります大谷大学へ進学しました。2018年に山形に戻り法務を務めさせていただいておりますが、まだまだ未熟者でございます。当山興隆の為、誠心誠意努めてまいりますのでよろしくお願い致します。
時代と共にお寺との付き合い方も変化しているように思います。そんな中でも皆様に寄り添った寺院を目指して参りますので、気軽にお越しいただけたらと思います。
隆勝寺から皆様へfrom Ryushoji
普段皆さまは、「何か起きた時」以外にお寺と関わる機会がなかなかないのではないでしょうか。
お寺で行われる様々な催事は、仏教の理念に基づいているため、仏事と言います。その中でも、葬儀式は現代のお寺の最大の役割と言えます。これは江戸時代より形成された檀家制度に由来する慣習ですが、亡くなった方を縁として行われる葬儀は、どのような意味で仏事と言えるのでしょうか。
大きな悲しみが伴う葬儀は、弔いや気持ちの整理という面ももちろんありますが、そのような人間の持つ「苦しみ」を「超える」ことこそ、お釈迦様が説いた教えであります。「超える」ということは、その事実と正面から向き合い、それを自分自身が引き受けていくことです。
浄土真宗では、我々のいのちの事実を「無量寿」、量ることの無い寿(いのち)と教え、また、その事実に気付かせていただく縁を「無量光」と教えます。このような願いを持った仏様こそ、「阿弥陀仏」と言うのです。お釈迦様は、この「阿弥陀仏」の願いに生きてほしいという教えを説いてくださったのです。
葬儀式は、故人のいのちの事実を縁として、我々自身がその事実に立ち返る仏事です。そしてその仏事を行うお寺の本堂は、「阿弥陀仏」のいのちの世界である浄土をイメージした内装(荘厳)であり、御門徒様をはじめ、すべての人に開かれた場所です。御門徒様はもちろん、それ以外の方でもお気軽においでいただけたらと思います。
葬儀等の事について、いつでもお問い合わせください。一件として同じ葬儀はございませんので、色々な事を相談させていただけたらと思います。
お寺は、活き活きとした、いのちの輝く活動の場所として様々な活用法もあるのではないかと思っております。どうぞいつでもお立ち寄り下さい。また、場所の活用などについても、是非一度ご相談ください。
皆さまが隆勝寺に来てよかったと思って貰えるように寺院の整備・清掃、運営、法務など努めて参りますので、どうぞよろしくお願い致します。
浄土真宗とはWhat is Jodo Shinshu?
浄土真宗とは、宗祖親鸞聖人によって開かれた仏教の一つです。宗祖は、浄土宗の開祖でもあり親鸞聖人が師と仰ぐ法然聖人の「ただ念仏」の教えに導かれ、生涯を通してその教えに生きました。そして、その意味を「念仏もうさんとおもいたつこころ」(『歎異抄』)であると、自身の内面深くに自覚していきました。宗祖は、釈尊が説いた阿弥陀の教え、念仏して浄土に往生することが、自身にどのように関係してくるのかということを課題に持ち続け、自身の精神の奥底の、いわば「いのち」そのものの持つ願いに目を開かれていったのです。
現代の我々は、昨今取り巻く社会状況や日々の生活に追われ、また、そのストレスを解消するために目先の娯楽を追ってしまっており、なかなか自分自身を振り返ることに目を向けようとしません。それどころか、そのような在り方を正当化しようというプライドさえ感じます。私自身、仏教に身を置きながらも、念仏を忘れることがよくあります。「ただ念仏」ということでさえ、お金や人間関係の悩みの激しさには影を潜めてしまうのです。
仏教では、このように本当に進むべき道を曇らせる心の働きを「煩悩」と言い、それを持つ存在を「凡夫」と教えますが、それでもこの生活しかありません。そのような生活の中で、我々が本当に依って立つべきものは、我々の周りや「煩悩」の真っ只中で、そのような自分自身の本当の願い、生まれたことに本当に満足していく道に立ちなさいということを、浄土真宗という仏教は伝えているのだと思います。
現代の我々は、昨今取り巻く社会状況や日々の生活に追われ、また、そのストレスを解消するために目先の娯楽を追ってしまっており、なかなか自分自身を振り返ることに目を向けようとしません。それどころか、そのような在り方を正当化しようというプライドさえ感じます。私自身、仏教に身を置きながらも、念仏を忘れることがよくあります。「ただ念仏」ということでさえ、お金や人間関係の悩みの激しさには影を潜めてしまうのです。
仏教では、このように本当に進むべき道を曇らせる心の働きを「煩悩」と言い、それを持つ存在を「凡夫」と教えますが、それでもこの生活しかありません。そのような生活の中で、我々が本当に依って立つべきものは、我々の周りや「煩悩」の真っ只中で、そのような自分自身の本当の願い、生まれたことに本当に満足していく道に立ちなさいということを、浄土真宗という仏教は伝えているのだと思います。
本尊 |
阿弥陀如来
大乗仏教の仏。 |
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正依 | 仏説無量寿経(大経) 仏説観無量寿経(観経) 仏説阿弥陀経(小経) |
宗祖 | 親鸞聖人 |
宗祖の主著 | 顕浄土真実行証文類(教行信証) |
宗派名 | 真宗大谷派 |
本山 | 真宗本廟(東本願寺) 京都市下京区烏丸通七条上る |